わたしはわたしを関係ないわ

更新日:5月7日


この前、中森明菜の「少女A」を聴いていたら、とんでもない歌詞があって、茫然自失となった。 わたしはわたしを関係ないわ 「私は私を関係ない」とは一体どういうことだろう? 文法的な問題云々ではなく、これは哲学的なことを言っているのだと直感した。 単なる自暴自棄と解釈してはまずい気がしたのだ。 作詞をした売野雅勇の事務所に問い合わせてみようかとも思ったが、何しろあの中森明菜が何の迷いもなく歌っているので、この歌詞の意味を導き出すのは聴き手の課題だ。 レコードも広く流通し、人口に膾炙した作品なので歌詞の誤植ということはあるまい。 いろいろ考えた末、この歌詞は少女Aの「復体」のことを言っているのではないか、との仮説を立てた。 復体とはドイツ語ではドッペルゲンガー、医学用語では自己像幻視と云い、もうひとりの自分を感知してしまう現象のことだ。 恐らく、モーパッサンの『オルラ』で起こったことが少女Aの中でも起こっている。 すなわち「私は私を関係ない」の前にある歌詞に登場する、 上目遣いで盗んでみている蒼い視線を送っているあなた 女の子のこと知らなすぎるのあなた は他人ではなく少女A本人である。 しかもこのドッペルゲンガーはヘッセの『荒野のおおかみ』に登場したヘルミーネのように異性である可能性が高い。 さらに注目すべきは『オルラ』や『荒野のおおかみ』の主人公とは異なり、少女Aは「いろんなあなた」を自分のドッペルゲンガーであると客観的に認識している点だ。 だから「わたしはわたしを関係ないわ」なのではないだろうか。 つまり、『少女A』とは異性のドッペルゲンガーが周囲にいて、それを「もうひとりの自己」と認識しながら拒絶している心象を描いている。 さらにそれを「特別じゃなくどこにもいる少女A」としているのは、この現象の普遍性を謳っているのではなく、きっと少女Aの「あきらめ」だろう。 歌詞の深さにため息にを付きながら、これは歌詞全体を読み返し、さらに見識を深めなくてはならないと思い、TSUTAYAに寄ってベスト盤を借り、該当の部分を聴きながら歌詞カードを追ってみた。 そのとき… 「ユリイカ!」 と僕は思わずと叫んだ。 ユリイカとはギリシャ語で「わかった」という意味だ。 なんと中森明菜が歌っていたのは、 「わたしはわたしを関係ないわ」 ではなく 「わたしはわたしよ 関係ないわ」 だったのである。 僕は「よ」と「を」を聞き違えていたのだ。 歌詞の問題ではなく、自分の耳の問題だった。 ドッペルゲンガーではなく、 僕のアタマノゲンガーゆるんでいたのが真相のようだ。

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